ペンハリマブログ

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子どもに考える力を

2009.06.26日

 義務教育9年間のうち6年を終わって中学校へ入学してくる子どもたちと長年関わってきて感じたことは人間は生まれて依頼12年間(12歳)でその成長ぶりにかなりの差が生じるものだということだ。

 からだの成長、運動能力の成長はもちろん、知的能力の発達には大きな個人差が生じてきていて驚いたものだ。なかでも今、問題になっている「中1プロブレム」「中1ギャップ」というものがある。


 小学校では最上級生として児童会等で教師を助けて、下級生には兄さん、姉さんぶりを発揮していたものが、4月に入ると途端に最下級生になり、そのギャップの大きさに希望を持って中学校に入学したものの、小学校との環境の違いの大きさに戸惑ってしまう子どもが多くいる。中学3年生の生徒とのからだの大きさに圧倒されることもある。


 大きな夢を持って入学式を迎えたものの、学級担任制から教科担任制への変換、授業の進み方も極端に早くなり、学習する内容も一段と難しくなり、授業についていけない生徒も増えてくる。教科の内容もより専門的になるのも一因だろう。この「中1プロブレム」を解決しようと考えられたのが「小中一貫教育」だ。


 以前、小学校の先生に聞いたことだが、「子どもは一年経過するごとに一年の差が開いていく」ということ。つまり小学校6年間では6年間(6歳)の差がつくという話だ。.
具体的には 不登校になったり、勉強がわからなくなり、諦めて勉強しなくなる。

 こんな差のついた生徒を一つの教室に入れて教科の授業をするのだから先生も大変だ。特に数学等になると、算数がわからない生徒がたくさんいるのに、中学校レベルで数学をやるのだから矛盾も甚だしいものだ。100点を取る生徒と、5〜10点くらいしか取れない生徒が一緒に授業を受けるのだから分かるはずがない。


 宿題をしてくる割合が統計で出ていたが、小2で90%、小4で60%、小6で50%、ところが中1では65%にはね上がっている。これは中学生になっていかに張り切っているかが伺える。ところが中2では35%とガクンと下がり、中3では30%になってしまっているのが現状だ。

 特に一番大きく出るのは小学校4年生と5年生との間だ。算数をみても「わからなくなった」という児童が4年生で10%のものが、5年生になると25%と倍増している。4年生と5年生の間に何があったのか。それは「10歳の壁」とも言われるものだ。国語力の未熟さからくる問題解決力のなさが10歳の壁を作っているという。

 つまり、問題が具体的なものであるときはいいが、抽象的問題に出会うともうできなくなる。「文章題ができないのは国語力の無さ」と言う人も多い。特に「単純作業的な学習」はできても「考えることを要する問題」になると途端にできなくなる。これも「読解力」の差からくると言われる。

 
「100ます計算」で100のますを全部埋めるような作業は単純作業でできる。時間を競うことをすれば、100ますの上から順にしないで、まず0のところを左から右へやる。考えなくても上の数字さえ書けばいいことになる。次は1に欄、上の数字に1さえプラスしたらよい。というような作業をいくらやっても「学習した」とは言えないものだ。


 近ごろこのことが論じられると100ます計算も下火になってきている。
幼児の頃からどんな小さなことでも子ども自身に考えさせる習慣を身に付けさせる取組が一番大切ではないだろうか。子育てに懸命になるまりに「早期教育」に走ったり、テレビで「子育ての番組」を放映したら飛びつく母親が多い世の中だ。「東大へ入れる教育」など看板にすれば、視聴率がグンと上がるそうだ。

 
 子どもの小さなときから、考えさせることをできるだけ多く取り入れた家庭教育こそ大切だ。これこれをさせたら頭の良い子どもに育つというような「妙薬」はない。しかし、何事も自分でやらせる教育、それを暖かく見守る親の愛情こそ大切なことだと思う。


 数学や理科の公式、社会科の年代などをいくら暗記しても勉強とは言えない。
なぜ?その公式が導き出されたのか?その公式が導き出された道筋を考えた方がいい。
結果だけを知る・・よりも、その考えに至る過程を知る方が興味も湧くものだ。

 子どもに「うちの子はやる気がなく困る」という前に、何でもこれまでの生育の途中で「与える教育」ばかりしてきてはいないだろうか反省すべきだ。「自分で考える教育」を果たすには親の辛抱や我慢が大いに必要である。辛抱や我慢できずにすぐ手を貸したりしなかっただろうか。習慣を身につけさせるには、子どもに対して継続的な親の辛抱や我慢が望まれる。

 今の世の中、大変便利になり、なに不自由なく子どもたちは生活している。余った時間を何に、そしてどのように子どもに使っているか。塾の送り迎えを車でやっておられる家庭も多いらしい。こんな物騒な世の中だからしかたがないのかもしれないが、親が貴重な時間を送り迎えに走っているようでは時間を有効に使っているとは言えない。
子どもの学習成績を向上させる秘訣を聞かれたある教育者(教育学者ではない)は、次のように答えていた。「先ず親が自分のすること(仕事や趣味・教養などに)に懸命になる。そして何かを勉強しているか・・ を問いたい」と。このような親の姿を見た子どもは「自分の仕事は・・・何か?」を考え、「自分の仕事は勉強なんだ」と気づくことになると。

 
 確かに子どもは生まれながらに持った「能力」があると言われる。「あの子は頭がいい子だ」とか「親が頭がいいから・・・」。このように「頭」や「能力」を持ち出されると話しは続かなくなる。遺伝的な側面も否定できないが、それよりも「後天的な子育て」の方が優先されると思う。「もううちの子は10歳だから・・・」とか「今からでは・・」と諦めずに、そして子どもの教育を「丸投げ」にだけはして欲しくないし、「今この子にできることは何か」を真剣に考えてあげてほしいと思う。
   平成21年6月26日
  岡村ゼミナール教育顧問 大 西 豊 司

理想の教師像は

2009.06.26日

 誰でもみんな学校の先生に限らず、学習塾や習い事の「先生」と呼ばれる方にお世話になられ、そんな場における多くの「先生」の中で心に深く残り、人生によい意味で大きく影響を与えてくださった先生もたくさんおられると思います。


 心に深く残っている先生の共通点はどんな先生だったでしょうか。
「教え方が上手・・」「知識が豊富である・・」「ユーモアがあって大変明るい・・」「厳しいけど、暖かい・・」などいろいろあると思いますが、私も心に残り忘れられない立派な先生にたくさん出逢うことができた幸せ者です。

 多くの忘れられない、記憶に残る先生。やる気を起こさせ、生徒を思いもかけなっかた分野にまで変えてしまうほどの先生。そんなすばらしい影響を与えてくださった先生たちの「共通点は何だろう」。このように「先生」というものを振り返ると私は「先生」とは単に知識を生徒に教え込むことだけではなく、「一人の人格者」「生徒と同じ目線で考えられる人」「先ず品格の備わった人」「心から尊敬できる人」であることが条件になるのだと思います。

 公立学校の先生の採用試験を見ることがありますが、まず一次試験のペーパー試験に合格すること。その後に行われる「面接試験」「模擬授業」・・どんなに試験官が立派な人であっても、その受験者の心の中まで見抜くことは至難の業だと思います。

 よく先生が問題を起こしマスコミに取りあげられていますが、問題を起こすような先生をチエックできないのが現実だと思います。壺井 栄の小説「二十四の瞳」に出てくる大石先生のような先生は今の時代に求めるのは無理かも知れませんが、せめて採用試験の段階で問題の教師を排除できないものかといつも思います。


 先日も新聞、テレビで大きく取りあげられていた、教育大学で学ぶ先生の卵と言われる学生たちが集団で女子学生に暴行したとかいうことですが、教育大学の学生だからいけないことというのではなく、、どんな人間でも許される事案ではありません。

 しかし、ことが「教育の現場に参加する心構え」を持たなければならない学生が・・
・。論外だと切って捨てたい気持ちです。「教師の卵?」とんでもないことです。昔から教師のことを「聖職」と呼んでいましたが、今ごろ「聖職」も死語になってしまいました。

 私が教職についた頃にはまだ「聖職観」はありました。ですから、「教師という職業は給料は安いけどそれなりのプライドを持て・・・」とよく先輩の先生に言われたものです。


 「学校の先生」「警察官」「公務員」・・に大変不祥事が多く報道されるのは、やはりこれらの職業は人々から大変注目の的であるということ。
家庭教師と言えども・・。「この子を何とかしなければ・・・」「何とかしてあげたい・・・」という気持ちを失わないでもらいたいもpのです。学習塾は子どもの教育をしていても文部科学省の管轄ではなく経済産業省の監督下にあります。つまり「サービス業」なのですが、単に教育事業、教育を商売にする・・というのではないことを確認してください。


 先生といっても聖人君子ばかりであるはずはありません。ごく普通の人間であることの方があたりまえです。肩肘を張らず、ごく普通の人間であった方がより生徒と上手く波長が合うことになると思います。
もし、生徒の質問に答えられなくても、そんな時「知らない」ということは恥ずかしいことではありません。心が通い合った生徒なら「先生にはわからない、でも次に来るときには調べておくからね」で十分通用するものです。知ったかぶりして間違ったことを教えるよりよほど生徒の心を捕らえて、信じられ前進することでしょう。
両親やその子どもの思いをくみ取り、いかに希望に添うことができるか、その生徒の将来をどこまで真剣に考えられるかが先生として肝心だと思います。


 数年前のことですが、生徒が部活動で対外試合に出たとき、休日だったと思いますがその担任の先生がそっと試合を見に行かれたそうです。応援にです。
こんなことを先生に強制するわけではないのですが、その子は真剣に先生と勉強に取り組むようになり、見事第一志望校に合格したことを思い出しました。
先生方も、ご自分の過去の先生の中でいい思い出につながる先生のことを思い出して、どんな先生が本当の先生と呼べる人なのかをお考えください。
そしてそのような先生に少しでも近づけるようにがんばってください。
  

     平成21年6月9日
             岡村ゼミナール教育顧問 大 西 豊 司