ペンハリマブログ

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小中一貫教育の推進で

2009.04.26日

 姫路市では今年から市立城南小学校と市立城巽小学校が統合され、市立白鷺小学校となってスタートした。その校舎は市立白鷺中学校に隣接した城南小学校になり、白鷺中学校と「小中一貫校」として小中一貫教育が始まった。
 
 3月までは小学校で一番上のお兄さん、お姉さんだったのに中学校に入ったら一年坊主に格下げ。楽しみにしていた部活動では先輩は厳しいし、体力的にも随分ハンデがある。クラスにはいろいろな小学校の出身者がいて友だちづくりが不安。教科ごとに先生は違うし、怖そうな先生も多い。英語が始まり、算数が数学になって勉強は急に難しくなってくる。中学校ってもっと楽しいところと思っていたのに・・・。

 
 中学校の学習や生活になじめず、悩む子どもが増えている。

  
 いじめが横行してくるとそれが不登校にも結びついていくことになり、小学校の不登校生は少ないが、中学校に入ると急に増加するところに注目しなければならない。

 
 小学校と中学校の落差は子どもにとって想像以上に大きい。いわゆる「中1ギャップ」と言われるものだ。

 
 6・3・3制が発足した1948年当時の6年生の身長を今の4年生は軽く上回るというように最近の子どもの成長は「強さ」は別にしてとても早い。12歳から中学生という仕切りが実態に合っているか怪しくなってきている。ならばいっそ、その垣根を無くしてしまおうというのが小中一貫教育だ。4・3・2とか、4・2・3とかに分けて教育することにより、小学校から中学校へ進学するときの段差をなめらかな坂道にし、「中1ギャップの解消」を狙っているのである。横浜、大阪、神戸、東京(品川区)では全市的に導入を決め、にわかに脚光を浴びている。また近辺では宍粟市での実施が注目されている。

 
 姫路市では白鷺小、中学校がスタートしたが、あと続いて一貫校を設立を計画している。校区が1小学校、1中学校の校区では実現しやすい。例えば豊富小と豊富中、四郷小と四郷中、林田小と林田中などである。

 
 一般の見方はどうだろう。過半数が小中一貫校に関心があり、6・3・3制が始まって60年余が過ぎた今日、高校進学率も40%であったものが、今では98%に迫り、学校を取り巻く環境も大きく変わった。小学校、中学校の段差の存在に気づき、そこをなめらかな坂道にすることは誠に的を得たものと思える。

 
 しかし、当姫路市の場合、国宝(世界遺産)姫路城のまん前という交通の便に恵まれていることからか校区外通学も認めたために40%の児童・生徒が城巽、城南校区以外から集まったというから、ちょっと問題は違う方向へ進むことになるのではないか。

  
 つまり、今の中学校教育はひと昔と大きく異なり、どこの中学校でも難しい問題をたくさん抱えている。中でも一番の問題点は生徒指導である。教師の指導に、指示に耳を貸さない生徒たち、好き放題を決め込み、教師たちを困らせ、悩みに悩む教師集団がそこにある。指導にならない中学校もあるように聞く。

 
 かわいいわが子を落ち着いた環境で、しっかり勉強させてくれる中学校へ入れたいと思うのは親心か。住んでいる校区の中学校が荒れていると、小学校から私立の中学校へ、そして少しでも落ち着いていると言われる公立中学校へ通わせたいと思うのは理解できる。

 
 できる子でお金に困らない家庭の子は私立の中学校へ、そして「進学校と」言われる高校へ通学させたいという構図がはっきり読みとれるのである。

 
 そこで普通の家庭では、比較的通学しやすい、白鷺小→白鷺中の小中一貫校への通学を希望するのである。しかし、白鷺小・白鷺中学の教育はよくても、そちらの方へ抜けたあとの校区の中学校はたまったものではない。更に荒れてしまうことになるのである。

 
 先日市教委へそのことについて話をしたら「そうならないことを願っている。
 自分の校区の学校は自分たちの手で良くする心がけが大切だ」と言っていたが・・・。

 
 やはり姫路市の場合、校区の枠をはずし入学させたところに大きな失敗がある。

 
 小中一貫教育実現の最大の支持理由は「中1ギャップの解消」が期待されたからに他ならない。授業においても中学の先生が小学校で教えたり、その交流も大いに期待したい。「教師というギャップ」「校舎というギャップ」「友だちとのギャップ」「制服というギャップ」など・・・。こんなことでのストレスをできるだけ軽減する小中一貫教育は大いに注目されるところであるが、やり方を間違えるととんでもないリスクを背負うことになりかねないということを知らなければならない。

        平成21年4月24日
                  岡村ゼミナール教育顧問 大 西 豊 司

 親と子は・・・

2009.04.18日

 つい先ごろ長野県へ行って来た。長野自動車道に「姨捨サービスエリア」があった。

 
 姨捨山(おばすてやま)は長野盆地の南西部にある山。千曲市(ちくまし)にそびえる標高1252メートルの山容は円頂丘をなし、標高は高くないが全体に険しく全山森林に覆われている。山の正しい名前は冠着山(かむりきやま)と言うらしい。

 
この姨捨山にまつわる民話が当地では有名で土地の人に聞いた話を紹介しよう。
 この民話は深沢七郎氏原作で「楢山節考」という信州の寒村に住む人々を描くこの小説はこれまでに二度映画化された。二度目は1983年に今村昌平監督で、緒形拳、坂本スミ子共演で。この長野県に伝わる民話のことを少し書くことにする。

 
 昔、年寄りの大嫌いな殿様がいて、領民を虫けら同然に扱い、年寄りを「口減らし」と称して「70歳を過ぎると姨捨山へ捨ててしまえ」というお触れを出した。村人たちはこのむごいお達しに非情を恨んで嘆き悲しんだが、その命令に従うよりしかたがなかった。ところがここに一人の親思いの孝行心が深い若者がいた。「自分を可愛がって育ててくれた親をどうして寂しい山奥などに捨てられようか」と思い悩んでいた。

 
 しかし、この若い男は殿様の命令に逆らうことはできず母を背負って山道を登って行った。するとこの男の背中で「ポキッ ポキッ」という木の枝を折っている母。男は不思議に思ったが何も聞かず山道登った。

 
 年寄りを捨てるのは深い山奥だ。男が母親を残して一人帰ると言うにはあまりにも真っ暗闇。男は道に迷って母親のところへ引き返してきた。息子の姿を見た母親は静かに言った「こんなこともあろうかと、途中で木の枝を折って捨ててきた。それを目印にお帰り」。子を思う親の優しい心に触れた男は、家に帰ったものの「あの山の上で今ごろお母さんはどうしていらしゃるだろう」と思うと、殿様の命令に背くのを覚悟で、母親を家に連れ帰り床下に穴倉を掘ってその中にお母さんを隠した。そして毎日三度三度ご飯を運んで「お母さんご窮屈でも我慢してください」と。

 
 それからしばらくして隣の殿様から信濃の国の殿様に手紙が来た。隣の国はたいそう強い国で、次のような問題が出された「灰の縄をこしらえて見せてもらいたい。それができなかったら信濃の国を攻め滅ぼす」と書いてあった。

 
 殿様は困ってしまい家来たちに相談したが誰一人いい考えは浮かばなかった。
 そこで国中にお触れを出して「よい考えはないか」と告げた。

 
 この百姓の男はふと「これはことによったらうちのお母さんが知っているかも知れない」と思い、穴倉へ行ってお触れのことを詳しく話した。


 お母さんは笑って「まあ、それは何でもないことだよ。縄に塩を塗りつけて焼けば崩れないものだよ」と言った。


 百姓は「なるほど、これだから年寄りはばかにできない」と心の中で感心した。早速殿様に灰の縄を献上すると殿様はびっくりして、ご褒美にお金をたくさんくだっさった。

 
 隣の国からまたまたこんな問題も寄せられた。「二匹の馬の親子を見分けてもらいたい」それができなっかたら信濃の国を攻め滅ぼすぞ」と例の難題。

 
 又、百姓の若者は母のところに行き相談した。お母さんは笑って「それは難しいことではないよ。親子の分からない馬は二匹を放しておいて、間に草を置けばいい。するとすぐ草にとりついて食べるのは子どもの馬で、子どもが食べてから食べ残しを食べるのは母親の馬だよ」と教えた。

 
 またしても手柄をたてた百姓の若者に殿様は「お前は国中一の知恵者だ。さあ何でも望みのものをやるぞ」と言った。百姓の若者は「わたしはお金も品物も要りません。その代わりにどうか母の命をお助けください」と言って、これまで隠していたことを残らず殿様に言った。「なるほど、年寄りというものは大切にしなければならないものだ。母親を隠した百姓の罪はむろん許してやるし、これからは年寄りを山に捨てるということは止めにしよう」。こう殿様は言って「年寄りを大切にするように」というお触れまで出した。

 
 この長野県の民話にはまだいろいろな中味があるが「楢山節考」という小説は山に捨てた母親を忍びず、別れを悲しむ息子との情をえがいたものである。

 
 今の世の中、親が子を、子が親を殺すような事件が絶えない毎日である。しかし、世の中がどのように変わろうとも、いつの時代でも親はいつも子どものことを忘れず、自分が犠牲になったとしても子どもを守り、思い続けるものだという話しである。

 
 反対に子どもは一人で大きくなったと思い込み、勝手な行動をするこの世の中には考え直す話ではなかろうかと思った。


 穏やかな長野盆地に伝わる心が暖まる民話を紹介したが、この民話の底を流れている親子の情愛はいつの時代においても通用するものだと思う。

 今の時代、「親孝行」ということばは死語にもなったのかも・・・。悲しい時代だ。
     平成21年4月17日
              岡村ゼミナール教育顧問   大 西 豊 司


掃除で心を磨く

2009.04.11日

最近「大西さんは現職(中学校教師のとき)のときは掃除していましたか?」と聞かれたことがある。私の現役時代は掃除の時間は教師も生徒と一緒になって学校を美しくしたものだ。トイレの掃除も生徒と一緒になって・・・。

 
 便器をきれいに磨いた後などに「先生、掃除できれいになると気持ちがいいね」という声を聞いたことも思い出す。

 
 ところが近ごろの小中学校はもちろん高校(公立)においても、掃除は軽く考えられて「なんで自分らが掃除せなあかんのや・・・」「人を雇ってさせたらいいんや・・・」と。

 
 また、親たちも「うちの子は掃除をさせるために学校に行かせていない。学校は勉強を教えるところだ」と主張。トイレの掃除をさせたら「そんな不衛生なことをさせて・・・、もし感染症にでもなったら責任を取るのか」という。

 
 荒れる学校、授業中立って走り回る子どもたち。教師の指示などまったく耳にしない子どもたち。無秩序な集団生活の中で学校教育は毎日行われているのが現状だ。

 
 そんな中で曹洞宗大本山永平寺(福井県永平寺町)のお膝元、同町立永平寺中学校(約200名)では、放課後になると全生徒が廊下に正座して黙想。騒がしい足音がぴたりと止まり、静けさに包まれて生徒たちが目を閉じて横一列に正座する伝統の無言清掃の始まりだ。約15分間の清掃中、私語は一切しない。
 雑巾で黙々と教室や体育館、廊下、トイレの便器を磨き、清掃後にも再び正座で心を静める。真剣な表情、きびきびした動きはさながら修行僧のようだという。

 
 「掃除は自分と向き合う創自の時間自己を見つめ直し、自ら考えて行動する力を養う」と学校側はいう。清掃中は先生は口をはさまない。同校は1950年創立。いつからか無言清掃が定着し、伝統となった。同校では登下校時、生徒が必ず校門で立ち止まって校舎に一礼する習慣もある。教師が指導したわけではなく、また教師が校門に立ったりしないのに。掃除を通じ、毎日勉強する校舎に感謝する気持ちが自然と根付いた結果だという。この辺の学校でも「朝立ち」と言って、教師や生徒代表が校門に立って「おはようございます」と登校してくる児童・生徒に声をかけている光景をよく見かける。中には親まで動 員して(割り当てで)・・・。これが「あいさつ運動」だというから話しにならない。

 
 あいさつは子どもの方から自主的にしてこそ価値があるものだ。そのあいさつの列の中を無言で通り抜ける児童・生徒たち。何かがおかしいと思うのは私一人だけだろうか。

 
 最近の学校教育の場では窓ガラスを破ったり、器物の破損が各所で多く見られる。その原因は何だろうか。世の中が荒んで、心身ともに人を傷つけることは毎日のニュースになり、自殺にまで追い込む「いじめ」も多発している。また親が掃除を軽く考え、家庭内の掃除を業者に依頼するような時代だ。「金さえ出せばどうにでもなる・・・」という考えが一般化し、子どもに掃除のしかたを教えない、掃除をさせない家庭が増えたことが様々な社会問題の遠因になっているのではないだろうか。

 
 近年、学校清掃を見直す動きが出始めている。これまで軽く見がちな掃除を再考する動きだ。横浜市では2010年度から小中高の市立学校約500校で約30年ぶりに児童・生徒によるトイレ掃除の復活を決定した。校務員の仕事だったが子どもの公共心を育むため見直した。このことは「環境教育」の一環にも繋がる大切な問題なのだ。

 
 自分で掃除する教室、廊下、トイレを汚すことはしないものだ。


  「掃除」は「創自」。先ず子どもの心を磨き、それから教科の勉強だ。集中心、公徳心向上に掃除教育を。こんな教育を受けた子どもが大人になったときにはごみ問題も大きく変化して住みよい街ができるのではないだろうか。 
 空白の30年〜40年間を埋めるは問題はあまりにも大きいが、教育関係者のみならず、各家庭においても「掃除」を重視してもらいたいものだ。

 
 これからの日本を担う本当に大切な子どもたち心を育てることなのだから・・・。

 
 (永平寺中学校には全国から教育関係者の視察が相次いでいるというが、上辺だけを真似てもダメ。心を育てる教育を真似なければならない)

 
 今日は子どもの教育と関係ないことを書いたみたいだが、教育は勉強を教えることだけを指すのではない。人間を育成する、育てることが一番の目標であるはずだ。 
 家庭においても進んで掃除をする子どもになってもらいたいものだし、また、ご家庭においても、子どもに掃除のしかたを教え、そして掃除をさせることも大切な家庭教育と捉えてもらいたい。
     平成21年4月10日
                  岡村ゼミナール教育顧問 大 西 豊 司