ペンハリマブログ

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感動した話(子育てとは・・・)

2009.01.17日

 前回のコラムでは子育てと躾について親の役割の大切さを説いた。内容はわが子が万引をして補導されたとき親の取った態度のことだったが、今回も「子育てと親の決意」について書くことにする。

 
 先日、民放の某局が放映していたドキュメンタリー番組の話。大輔君(仮名)は7歳。2歳違いの姉さんと両親の4人家族という、どこにでもあるごく普通の家庭の子どもだ。しかし、大輔君は日常生活を見ているとどうもはっきりせず、自分から行動する姿勢がなく、また自分で行動を起こすことに乏しい子どもである。つまり、甘えん坊的な存在で両親も将来を大変案じていた。

 
 男と女の子どもが一人ずつ、それも女の子が年上にいる場合、どうしても姉の方よりも下の息子の方に両親の気が向くことが多く、つい手を出してかまってしまう場合が多くなる。だから上の姉さんは弟よりあまり構ってもらうことがないために「自立心」も芽生えることが多く見られ、しっかりしている例が多い。両親はその姉の様子と弟をつい比べてしまい尻をたたいて(本当にたたくのではない)勉強させようとするが、余った時間つい手を弟の方に向けるようになり、ますますその子に自立心が育たなくなってしまうという悪循環の繰り返しという構図がよく見られる。

 
 サラリーマンのお父さんはそんな大輔君の姿勢を見て、「もう少ししっかりして欲しい・・」と思って悩んでいた。「どう教育したら大輔に自分からやる気が出て、自立心が養われるか」と。実話であり創作ではない話であることを確認しておこう。

 
 そんなとき、大輔君の街に木下サーカス団がやって来た。サーカスの公演が行われている会場の前を通りかかったお父さんの目に飛び込んだ看板に「一般の方で空中ブランコに挑戦しませんか?」という文字があった。大輔君のお父さんは「これや!これに賭けてみよう!」と心に決めた。

 
 早速事務所を尋ね「参加させていただけませんか?・・・」と。その翌日からはお父さんの「木下サーカス大空中ブランコ」の特訓が始まった。仕事が終わった夜間に2時間、コーチの人の指導で練習が始まった。

 
 高さ14メートル、ビルで言えば4〜5階の高さから相手のブランコに向かって飛び出すには相当な勇気が要る。相手の人が逆さになってブランコを振る、それに合わせてこちらから飛び出し、ブランコから手を離し、そして相手の手に飛びつくのだ。コーチの人の「3、2、1、はい今!」という合図で飛び出すのだが、なかなか相手のブランコの人と手が触れるところまでいかない。そのうちに疲れと、14メートルという高さに恐怖感が高まり、だんだんコーチのかけ声にも反応しなくなってしまって飛び出せなくなっていく。

 
 「それでは今日はこれまでにします。」とコーチ。一日目は完全に失敗。一口に14メートルと言ってもとても高い。救命ネットはあり、命綱も腰にしっかりついているが・・・。私だっらとても14メートルの飛び出す台に立つことさえできない。

 
 はしごを一段一段登るお父さんの後姿は「すごく尊く」見えた。二日目の練習も同じ状態が続いたが、最終的には一度も手が繋がることなく練習は終わってしまった。やはり問題は高さによる恐怖心からなかなかタイミングよく手が離せないのが失敗の原因だとコーチ。お父さんは家の中の三人には内緒にしていた。

 
 そして親子四人で木下サーカスを見学に行くことにした。まだ三人は知らない。お客さんの中で飛び入りで空中ブランコに挑戦してみたい方はいませんか」というプラカードを持った人が場内を回って来た。お父さんは内心ドキドキしてきたが「ここで思い切らないと・・・」という思いでサッと手を挙げた。事前に木下サーカス団と打ち合わせをしていたとは言え、勇気と決断がいる行動だった。

 
 「お父さん、止めとき!そんな危ないこと。ムチャなこと・・・」とお母さんとお姉さんは必死に止めた。「お父さんホンマに行くん?」大輔君はビックリしてお父さんに聞き返した。
 「お父さんは行くよ。挑戦してくるよ・・」と言うなり係の人の後ろについて一歩一歩はしごを登った。「お父さんガンバッテ・・・!」大輔君は大声で叫んだ。何回も何回も。最上階にたどり着くまで声を限りに叫び続けた。お母さんとお姉さんは声も出ない。祈るような気持ちで手を合わせて下を向いたままだ。

 
 いよいよ相手のブランコがゆらりゆらり振り始めた。命綱をつけたお父さんはコーチの人の合図でスタンバイ。「3、2、1、はい!」の声。でも一回目は飛び出せない。二回目、今度は思い切って飛び出した。しかし、やはり手をブランコから離すタイミングが遅れ真下に落下。救命ネットで数回大きくバウンドして止まった。失敗だ。作戦は見事に失敗した。しかし、大輔君は違っていた。

 
 「お父さんやるじゃん、ようやるわ!」と目を丸くして拍手カッサイ!。お母さん、お姉さんも「やれやれ無事済んで良かった・・・」と、「ヤレヤレ・・・」という表情。

 
 場内放送は「ただ今空中ブランコに挑戦していただいたは方は失敗はされましたが、その勇気ある行動に暖かい拍手をお送りください」鳴りやまぬ拍手が満ち溢れたのは言うまでもない。「父ちゃん失敗しちゃった・・・」座席に帰って来たお父さんは照れながら席に着いた。しかし、大輔君の感動は空中ブランコに成功したときと同じくらいなものだった。サーカスが終わりテントの外に出る親子をカメラは追いかける。「お父さん今夜は何食べたい?」とお母さん。
 「そうやな、焼肉どうやろ?」とお父さん。「焼肉や、焼肉食べに行こう・・」と叫びながら四人は遠ざかって行ってENDだった。

 
 それ以後大輔君は大きく自立の道を踏み出したのはいうまでもない。子育ては口先で済むものではない。時には真剣に、勇気と決断、それに自分の命までも賭けるくらいの気構えが必要なときもある。
 中学校にいたころ、家庭訪問から帰った女の先生が「こんなこと言う親があったわ。勉強は家で見ますから、学校ではしつけをしっかりお願いしますとね。開いた口が塞がらなかった」と。

 
 「家で勉強させます」と言っても親が教育するのではなく「学習塾」か「家庭教師」にお願いするいわゆる丸投げを意味する家庭が多いと聞く。「風呂に入りたがらないので先生の口から言って聞かせて・・」「野菜を食べないので食べるように言って・・」などは私の教師時代にもよく耳にした言葉だ。

 
 大輔君のお父さんの勇気ある行動が大輔君の心を揺さぶり、自分から自覚を持つようにしたのだ。親の言動が子どもの行動に、そして気持ちに大きな変化を与えることを十分自覚して「親業」を果していただきたい

     平成21年1月15日
                  岡村ゼミナール教育顧問 大西豊司

 「いじめ」と「しつけ」を考える

2009.01.11日

 今、学校教育の場はもちろん、一般社会においても人が人をいじめる、いわゆる「いじめ」が横行し、大変問題化している。

 
 家庭内においては、幼児虐待、両親を、祖父母を子や孫までがいじめに加わり、社会状況が乱れに乱れてきている。そこには教師、両親、友だち、地域社会の機能が完全に麻痺してしまっているようである。先日には佐用町では中学生二人が先生を殴り、ケガをさせて警察に逮捕されていたが、この例など今の学校現場を端的に表しているようである。

 
 なぜ、人間は「いじめ」を考えるのだろうか。動物の世界でも「いじめ」に似た現象はよく見かける。弱肉強食の世界では生き延びるために、相手をやっつけて食物を獲ることは常識である。植物の世界でも、日光の取り合いや養分の取り合い、寄生植物などに見られる中にも似たようないじめが存在する。

 しかし、良識に満ち溢れた人間社会にまでなぜ「いじめ」がはびこるのだろう。昔から「いじめ」はあった。でも相手の人間を自殺にまで追い込んだり、重傷を負わせたり殺すような、または「うつ」などの病気に追い込むようなことはなかった。ケンカは日常茶飯事だったが今とは事情が、内容がそしてヤルことがまるっきり異なる。

 
 ケンカをしたり、特定の子をいじめることは見られたが、今とはイジメの質が違う。程度を心得ていて、相手が傷つくまで、また心理的に、精神的に参るようなことは決してなかった。やっても、どこまでヤルと相手の子が傷つくかをきっちり知っていてやっていた。だから大きな問題にまで発展しなかったものだ。

 
 殴る、蹴るなどの暴行にしても、自分が親や兄弟から殴られたりすることはいつものことなので、自分なりにその痛みや、辛さを十分心得ていたからだと思う。
 
 しかし、現代社会においては世の中、情報化社会の中で、ネットで、ケータイで、テレビの世界で、実際の生活とかけ離れた情報がいくらでも飛び込んでくる。子どもにとって選択する力もないのに、情報ばかりが溢れている社会なのだ。

 テレビやマンガ、ゲームで見る社会は残忍なシーンも多く、それが身近な体験となってしまっているのである。

 実体験と擬似体験、この違いが大きな問題だろう。はびこるネット社会にも問題が・・・。

 よく「いじめ」や「不登校」「ひきこもり」「うつ病」などは厳しい受験競争があるからだ。その結果、「通り魔事件」や「誰でもよい・・殺人事件」に繋がるように考える人がいるが、それは違う。厳しい受験競争は過去の方がキツかった。今は「全入時代」というわけだから。

 
 しかし、全入時代だから余計に、有名校、偏差値の高い学校を受験させる結果になっている。金があり、経済的にゆとりがある、いわゆる裕福層の家庭では、子どもに投資するとでもいうのか、ハイレベルで有名私立校を狙い、金もなく、偏差値も低い子の家庭ではそれも叶わず、格差社会はどんどん二極化しているように思える。そこに追い打ちをかける世界大不況の襲来だ。街に溢れるホームレス。進学させたくても入学金が準備できない家庭も多くなって来たようだ。
 このような社会においてやり場のない気持ちの子どももたくさんいる。人をいじめて溜飲を・・・。ということか?

 いじめは陰湿で、悪質なものが多くなってきた。例えばメールで、名前もわからない所から、キツイ内容が届く、精神的に子どもの心をえぐるような内容で程度を心得ておいて、相手を傷つけない程度で殴ったほうがましだ。スッキリしている。決して誉めることではないが・・・。裏で、陰湿に心の奥深く入り込むいじめだけはいけない。

 
 また、反面に子どもが精神的に弱くなってきているようにも思える。チョットした「いじめ」に対しても、それをはね除ける力に欠けているのではないか。という人も多い。

 
 生まれてから、親からの体罰というものも知らず、もちろん学校でも、先生は手を出すことは禁じられている.「先生、ワシを殴れるものなら、殴ってみい」と教師に挑戦的に言う生徒もいっぱいだ。家庭でも、学校でも、もちろん地域社会でも「よその子は相手にならない、どんな仕返しがあるかわからないから」と子どもを取り巻く環境で子どもを「叱る」「痛みを教える」機会が皆無だ
 小さな頃から、叱られることに慣れていなく、人から叱られると、それがすごいショックとなっているのである。

 要は、肝心なときに「叱られる」それもキツイ叱りで。叱られていない子はダメだ

 
 「かわいい我が子は親でも手を掛けたことがないのに、ましてや他人である先生の手が・・・」となる。子どもをどんなに「無菌状態」で育てても、どんなに守ってあげても、どんなに障害を取り除いて育てても一端一般社会人になったときには、身の回りに起こる「いじめ」は必ず存在する。そんなとき親が出かけられるのか、否その時は親は手を出せない。そうなると弱い人間は、辞めるか、逃避するかだ。会社に入っても三年以内に辞める人が三割ほどもあると言われる。

 
 終わりにしよう。随分以前の話。担任していた中学2年男子の一人が本屋で万引きをして捕まった。放課後に電話があり引き取りに行った。家まで送り届けたのは相当遅かった。事情を説明して帰ろうとしたとき父親が仕事から帰ってきた。その父親は私に頭を下げたあとその子を裏庭に連れて行って、「お前がそんなことをしたのはこの私も悪かった。一緒にこのバケツの水を被ろう。」
 2月の厳冬期に。母親は「そんなことしたら心臓マヒで死んでしまう・・お父さん・・・」と必死に止めようとした。「死んでもいい。生きて悪いことするくらいなら・・」。私も必死に止めたが父親は聞かなかった。ついに二人は裸になった。ザーという音とともに頭から水が前身に・・・。それからしばらくしたとき、二人は抱き合って泣き叫んだ。お母さんも、その場に座り込んでしまった。 
 我に返ったとき、厳しい寒さが体を駆け抜けたのを覚えている。三年生になったときも私が担任したが、その生徒は親子の絆は確かになり、以後問題を起こすことなく、それまで以上に意欲的に、親を信頼し成長した。忘れられない思い出のできごとだった。

 
 躾とは「し続ける」から来たということを聞いた。小さなことを積み重ねる大切さを知って欲しい。

     平成21年1月8日
                岡村ゼミナール教育顧問 大 西 豊 司