ペンハリマブログ

ペンハリマブログ

継続は力なり

2008.10.27日

「継続は力なり」という言葉があります。文字通り、続けることによって力は蓄積され大きくなるという意味です。生徒にたゆまぬ努力を続けよう。そうすればいずれは花咲く、自分に負けることなく頑張れという気持ちを込めてわが塾の入口付近に張られています。
 

 しかし、この言葉が思わぬ人に思わぬ影響を与えたのでした。ある日、塾を訪れた業者の一人がその文字をしげしげとながめながら、
「先生、継続は力なりというのはいい言葉ですね」と話しかけてきました。


  私は、この言葉を毎日見ているため、飽きが来てそろそろ張り出す言葉を変えようかと思った矢先のことでした。それだけにとても驚かされたのです。
「どうしてですか」と聞きかえすと、「いや、私個人的にいろいろなことがあってこの仕事やめようと思ったのですが、今ここでこの言葉を読んで、私の今までのこの仕事はどんな力を生んだのだろうかと考えさせられまして。」


 「私がこの仕事を続けてきて、先生のような方とも知り合いになりました。そんな人間的なつながりをフイにしてまでも、つくような仕事が自分にはあるのだろうかとつくづく考えさせられました。」
「私、今日は仕事をやめることを先生にお伝えにきたんですが、もう少し頑張ってみます。」
「私、継続は力なりという言葉に力をもらいました。ありがとうございました」 

 私はこの時はじめて、この言葉に奥深さを感じ、さっそく出典を調べてみることにしました。そうするとこれは、大正時代から昭和にかけて広島で活動した住岡夜晃という人の詩の一部であることがわかりました。彼は小学校の教員を9年間務めた後、仏門に入り親鸞の教えを説くことに生涯を捧げたということでした。
       青年よ強くなれ
       牛のごとく、象のごとく、強くなれ
       真に強いとは、一道を生きぬくことである
       性格の弱さ悲しむなかれ
       性格の強さ必ずしも誇るに足らず
       「念願は人格を決定す 継続は力なり」   
       真の強さは正しい念願を貫くにある
       怒って腕力をふるうがごときは弱者の至れるものである
       悪友の誘惑によって堕落するがごときは弱者の標本である
       青年よ強くなれ 大きくなれ


 この詩の中に「継続は力なり」という言葉があったのです。
繰り返しの力が経験となり、経験が積み重なると力になる。経験が積み重なると力に深みが出てくる。この経験の量が能力の差となって現われる。


 普段何気なし使う「継続は力なり」の格言が生まれるにはこんな背景があったのです。それを知ると「継続は力なり」の言葉がますます重く思われるようになりました。
それ以来「継続は力なり」この言葉は、わが塾の座右の銘になりました。


     2008.10.27           エクシード塾長   細井俊彦


愛情を込めて抱きしめる

2008.10.18日

最近、テレビを視ていて気づいたのだが、コマーシャルの中で公共広告機構(AC)が出しているもので「子どもの愛し方がわからない」というもの、「お母さん、お子さんを抱きしめてあげてください」という内容のものである。

 
 近ごろは昔に比べ「育児書」の売れ行きが極端に増えて、売り上げが少子化時代にもかかわらず約2倍だという。

  
 しかし、幼児から小学校低学年にかけての子どもの育ち方に異常が見られ、それらの子どもが小学校高学年、中学生、高校生、それよりうえの青年期になってもどうも様子が昔と異なるようである。若者の生活全体が変になったと認める大人が多くなった。

 
 この頃育児をしている親たちに、「わが子の育児に自信がない」という声もよく耳にする。「育児書」が売れ、「情報化」がこれほど進んでいても・・・。

 
 まゆみちゃんは小学校2年生。ある日、家へ帰るとすぐに「お母さん!今日は宿題が出たんや!」と母親に告げた。お母さんは「まゆみちゃん、それやったらおやつ食べたらすぐしいよ」と返事した。「お母さん、宿題、うちがする宿題ちがうんや!」とまゆみちゃん。


  「あんたがしない宿題ってなんやねん?」 まゆみちゃんは「それはナ、お母さんやお父さんに抱いてもらいなさい、という宿題や」と言った。「そんなことやったら、なんぼでも抱いたげるがナ」とお母さん。まゆみちゃんは、はじめは「抱いてくれるやろか」と戸惑っていたという。早速、お母さんはまゆみちゃんを何回も、何回も抱きしめた。お母さんの暖かい胸はまゆみちゃんにとってとても安心でき、心地よいものだった。

 
 翌日、まゆみちゃんの通うクラスでは友だちの間で昨日の宿題の話でもちきりだったとか。そして、その日の授業はみんな日頃と違い、大変落ち着いて学習ができ、クラス全体がいつもと違ったものだったという。担任の先生のこんなユニークな宿題が思わぬ効果をもたらしたことになる。

 
 今の子どもたちは、物質的には大変恵まれているように思うが、ほんとうの親の愛情を受けているのだろうか大変疑問に思う。 
 

 今は祖父母と暮らすことが、少なくなったため、子育ての知識は書物やインターネットなどで得る機会が多くなっている。そのため、知的な子育てに偏り、子どもを抱くと自立心をはぐくむ上で、良い影響を与えない、と考える親が少なくない。

 
 街へ出ても、デパートなどでベビーカーに乗った乳幼児を見かけることがある。狭いエレベターの中でも・・・。子どもはオドオドした様子で、まわりの大人たちを見上げているのを反対側にいる母親には見えていない。ベビーカーは便利な器具だが、私は使い方だと思う。私が子どものころ、しかられることが多
 かったが、抱きしめてもらったことも多かった。抱かれたときの体のぬくもりは、人の心の優しさ、温かさを生む原点であり、直接、肌で感じるということは、知識では教えられないことである。

 
 情的な子育てについて、考えてみてはどうだろうか。甘やかしではなく、愛情を込めて、しっかりと抱きしめれば、心豊かな優しい子どもに育ってくれるのではないか。

 
 私が小学2年生のある日、学校で熱が出てしまったことがある。今考えると相当高熱だったと記憶する。担任の先生は私を背中に、家まで送ってくださった。
 家と学校は200m足らずだが、その時の先生の背中は、温かく、心から安心できたひとときだった。

 
 先日その当時の小学校の同窓会をした。先生も駆けつけてくださり、暖かい春の一日。昔を思い出すいい同窓会だった。先生にその話をしたら、ご高齢になられても、そのことは、はっきり記憶されていて教育の神髄を見たようだった

     平成20年10月15日
                  岡村ゼミナール教育顧問  大 西 豊 司

こんな素晴らしい中学校があったとは!!

2008.10.04日

 月曜日のテレビの楽しみは夜8時NHK「鶴瓶の家族に乾杯」だ。時間の都合がつく限りちょっとでも見たいと思う番組だ。私と同じように思っている方も多いのではないだろうか。

 
 6月30日の放映は鶴瓶師匠が俳優の勝村政信さんと福井県の永平寺町を訪問した様子が流れていた。

 
 この番組は鶴瓶師匠とゲストの二人が行き当たりバッタリで日本各地を訪問して、そこでいろいろな家族に出会うという趣向で番組は進められる。筋書きは まったくないそうだ。その日の訪問先は福井県永平寺町。と言えば曹洞宗の総本山。永平寺がある町。

 
 僧侶の厳格な修行の場(寺)としても有名な寺のある町の訪問である。

 
 一番始めに永平寺を訪問するが寺の中へはテレビカメラは入れず、寺の中の様子は撮影されなかったが、以前私はこの寺へは二度ばかり参拝したことがあるので、雲水と言われるお坊さんたちの厳しい修行の様子は大体知っていた。

 
 この番組の中では、子どもたちの天真爛漫な勝村さんとの反応がよかったが、番組の中で驚いたのは、永平寺町立永平寺中学校の子どもたちだった。一日の学校生活を終え下校の際に校門で立ち止まってみんなが振り返り、校舎に向かって一礼をする姿を見て感動した。自転車通学の生徒もわざわざ自転車を降りて振り向いて一礼している。みんながみんなである。男子生徒でホックをはずしている生徒は皆無。これも驚きだった。

 
 素朴で純真な生徒たちの姿に感動で思わず涙がにじんだ。
 「一日学校で無事過ごさせてもらった感謝の気持ちです」とさりげなく答える生徒。

 
 「おしつけ」ではない。日常生活を通して、「しつけ」がしみ込んでいるのだ。
 
 例えば放課後の掃除の時間もみんな一斉に廊下に正座しての黙想から始まって、黙々と隅々まで清掃し、心を磨く。今時雑巾で教室内をタテ、ヨコと徹底的に拭くような掃除は見られないのに、この学校では無言で掃除に集中する。終わればまた廊下に正座して一日の行いを黙想して反省する毎日。

 
 こんな中学校が今時存在するとは思いもよらなかった。

 
 生徒の一人は「いつもやっていることだから・・・」と言っていた。鶴瓶師匠を見て大騒ぎするなど、ごく普通の中学生。そして先生も飛び抜けてスゴイといった人達ではなさそうだが、いまどきこんな中学校があったこと自体、日本もまだ捨てたものではないと思った。

 
 これらの伝統は創立以来50年以上続いているとのことだった。保護者、地域の人、先輩の方々によって脈々と受け継がれたこんなすばらしい学校教育は涼風となって私の心を吹き抜けた。飛び入りでの取材にもかかわらず、先生方のチームワークもそこかしこに見られ、やはり子弟一体プラス地域社会、家庭のつながりがその学校教育の原点と見た。生徒たちは一年生の時必ず永平寺で、1泊2日の座禅体験を行うという。中学校でこうした座禅体験を学校生活に生かしているのはうらやましいが、それを守り支えてきて大人たちも偉い。私の小さい頃、お寺へ日曜学校に行ったのを思い出した。祖父母はもちろん父も母も熱心にお寺参りをしていた。毎朝仏壇にお参りしてから朝ご飯が食べられた。

 
 若い頃訳がわからなかったことが、今からだが自然に応えてくれる。何か自分の居場所がそこにある感じだ。

 
 「子どもの教育」と言えばすぐ国語、算数、理科、社会・・をどのように教え、どのように覚えるか・・・と考え、教育とは「受験対策なり」と考える今時、永平寺中学校の教育は私たちに「教育とは何か、どうすることか」を痛烈に教えてくれるように思えた。いずれにせよ生きていくことの基本を身につけさせる教育の原点はこんなところにあるのかも知れないと思った。

 
 このように各地で未来を担うこどもたちが確実に育っているのに、その一方で先行き不透明で、不安感が増す中、社会が大きく乱れている。次々と報じられるニュースも無差別殺傷事件、毒入りギョウザや牛肉やうなぎなどいろいろな産地偽装問題・・・。と暗い話題が続く。

 
 教育界でも、大分県の教員採用試験をめぐって、大がかりな不正が発覚した。
 公正を重んじ、ルールを守るよう指導する立場にあった事件当事者の県教委幹部や校長、教頭ら関係者には教える資格はない。

 
 永平寺中学校をはじめ、全国各地には懸命に学業に、人間形成に励んでいる子どもたちも多い。こんな子どもたちに頭を垂れて教えを請うべきだ。

 
 これは日々、毎日真剣に子どもたちと向き合っている多くの先生たちの思いでもある。

 
 机上で道徳を教科化せよなどと論じているよりも、こうした事例を探して、これを分析することから始めたほうがはるかに有益のように思えるのだが・・・。

     平成20年10月1日
                  岡村ゼミナール教育顧問 大 西 豊 司